藤原宮跡

更新日:2023年03月28日

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【特別史跡】

藤原宮は、今から約1300年前、持統・文武・元明の三代の天皇が治めた都、藤原京(西暦694~710)にあった宮です。藤原宮は藤原京のほぼ中心に位置し、北を二条大路、南を六条大路、東と西を、それぞれ東二坊、西二坊大路によって囲まれ、その規模は、東西925.4メートル、南北906.8メートル、面積は約84ヘクタールにもおよびます。

藤原宮の内部は大きく中央・東・西区の3つの区画に分かれています。中央区には、大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)、朝集殿院(ちょうしゅうでんいん)といった、政治の中枢となる施設のほか、天皇や皇后の住まいである内裏(だいり)がおかれています。また、東・西区には行政の実務をおこなう、官衙(かんが。今の役所)がおかれています。つまり藤原宮は、今の皇居と国会議事堂、霞ヶ関(かすみがせき)の官庁街を1つにしたような場所で、まさに政治の中心地といえます。

宮の周囲は、瓦葺(かわらぶき)の塀(へい)と外濠で囲まれ、塀と外濠の間には外周帯(がいしゅうたい)と呼ばれる空閑地(くうかんち)が広がっています。また、宮には出入り口としてそれぞれの辺に3つずつ、合計12の宮城門(きゅうじょうもん)があります。

藤原宮は日本で初めて造られた瓦葺の宮殿で、中央区の大極殿や朝堂院、朝集院および、宮を取り囲む塀や宮城門は瓦葺です。また、これらの主要な建物は礎石建ちで、中国風の宮殿建築を取り入れたものとなっています。内裏や官衙は瓦葺ではなく、桧皮葺(ひわだぶき)であったと考えられますが、飛鳥時代の宮殿では、全ての建物が桧皮葺や板葺(いたぶき)の屋根であったことを考えれば、藤原宮の主要な建物はこれまでと全く違った建物として人々の目に映ったことでしょう。

藤原宮で政治が行われた時期の歴史上の大きな出来事としては、大宝律令(たいほうりつりょう)の制定(701年)、和同開珎(わどうかいちん)の鋳造(708年)があります。藤原宮が営まれたのは、わずか16年間ですが、日本の律令制を考えるうえで、非常に大きな役割を果たした舞台ともいえるでしょう。

現在、藤原宮跡は、国の特別史跡に指定されています。また、世界遺産暫定リストにも記載されるなど、未来にわたって受け継がれる重要な遺跡の1つとなっています。

林の中にある長方形の建物跡を上空から晴れた日に撮影した写真

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