本薬師寺跡

更新日:2023年03月28日

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(もとやくしじあと)

【特別史跡】

近鉄橿原線「畝傍御陵前」駅東出口から、香具山(かぐやま)に向かう道路を約500メートル東に進んだところに、作家の黒岩重吾氏による万葉歌碑があります。その南側の民家の庭先に15個の礎石があり、その南には水田の中に、東西に並んだ2つの土壇があります。これらが本薬師寺の金堂(こんどう)と東塔(とうとう)・西塔(さいとう)の跡です。特別史跡に指定されているのは、この、金堂および東西塔を含む伽藍(がらん)の中心部分です。

本薬師寺は西暦680年(天武9)、天武天皇(てんむてんのう)が皇后(後の持統天皇)の病気が治ることを祈願(きがん)して発願(ほつがん)した寺で、西暦698年にほぼ完成、藤原京の四大寺の1つに数えられています。伽藍配置(がらんはいち)は、金堂の前面に東西2つの塔を配置した薬師寺式(やくしじしき)と呼ばれる伽藍配置で、現在、西ノ京にある薬師寺と同じ伽藍配置となっています。また寺域(じいき)は、藤原京の右京八条三坊の全域が寺域であり、造営に当たっては、寺域を東西に分けていた西三坊坊間路を埋め立てたことがわかっています。

本薬師寺は、平城京遷都に伴い奈良に移りますが、建物や三尊(さんぞん)の仏像も全て平城京に移ったのかという点が長い間、問題となっていました(薬師寺論争)。発掘調査の結果、1.金堂や塔の規模や配置は平城京の薬師寺と変わらない、2.裳階(もこし)の礎石は残っていないが、小さな軒瓦などが出土していることから、金堂・塔ともに裳階付きの建物であったこと、3.奈良・平安時代の瓦が出土したことから、伽藍は修理されつつ、平安時代まで存続したこと、4.創建(そうけん)時に葺かれた瓦が大量に出土したこと、が明らかとなりました。つまり、平城京の薬師寺は、藤原京の薬師寺(本薬師寺)を移築したものではなく、本薬師寺に倣(なら)って造られたことが確定したのです。しかし、本薬師寺の三尊がどのようなものであったのかは依然、不明のままです。

本薬師寺の礎石や土壇(どだん)を見ながら、平城京の薬師寺の華麗な姿を想い浮かべると、かつての本薬師寺の姿がありありと目に浮かぶのではないでしょうか。

本薬師寺周辺の配置図

主要伽藍配置

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