和田廃寺

更新日:2023年03月28日

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(わだはいじ)

橿原市立畝傍中学校から東に数分歩くと、水田の中にぽつんと土壇(どだん)が現れます。これが飛鳥時代の古代寺院の1つである和田廃寺の塔の跡です。寺の本当の名前はわかりませんが、和田町(わだちょう)にある寺院の跡であることから、和田廃寺と呼ばれています。

和田廃寺は、『大和上代寺院誌(やまとじょうだいじいんし)』にも記載され、周辺にはトウノアト・堂の前といった地名が残るなど、古くからその存在を知られていました。しかし、伽藍は全く残っていなかったため、どのような建物があったのかすらわからなくなっていました。これを明らかにしたのが発掘調査でした。

奈良国立文化財研究所による調査によって、和田廃寺は7世紀後半から8世紀後半まで存続した寺院で、現在の土壇は、塔の基壇(きだん)の西半分であること、本来の塔基壇の大きさは、一辺12.2メートルに復原できることが分かりました。また、高さ1.27メートル、幅0.76メートルの鴟尾(しび)も出土しました。さらにその後の奈良県立橿原考古学研究所による和田廃寺の北側の発掘調査では、ガラス玉の鋳型(いがた)や三尊仏(さんぞんぶつ)が出土し、現在、土壇の北側を走っている県道(工事中)まで、和田廃寺の寺域(じいき)が広がっていて、伽藍の北側には僧房(そうぼう)などの施設があったのではないかと推定できるようなりました。しかし、和田廃寺の寺域や伽藍配置の全体像は、未だに謎のままです。

和田廃寺は藤原京でいうと、右京十一・十二条一坊にあり、寺の東側を朱雀大路(すざくおおじ)が通る位置関係にあります。朱雀大路というと、藤原京を東西に2分するメインストリートですが、和田廃寺周辺の調査では、朱雀大路は今のところ確認されていません。朱雀大路が確認されていない理由としては、朱雀大路が和田廃寺の部分には造られていなかった可能性や、まだ見つかっていないだけである可能性が考えられます。いずれにしても和田廃寺と朱雀大路の関係は、藤原京の造営を考えるうえで重要な問題を私たちに投げかけているといえるでしょう。

茶色く広い敷地の真ん中に土が盛られた部分がある写真

奈良文化財研究所蔵
塔基壇

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