藤原宮と京の発見

更新日:2023年03月28日

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藤原京は、都が平城京に遷都(せんと)した後は水田になってしまったため、都の範囲はおろか、宮殿(藤原宮)の位置すら分からなくなっていました。そのため、江戸時代から、藤原宮がどこにあったのか検討されてきました。その中で国学者(こくがくしゃ)の賀茂真淵(かものまぶち)は、「大宮土壇(おおみやどだん)」の地こそが藤原宮跡であると説きました。賀茂真淵は、この地が大和三山の真ん中にあり、「大宮殿」という地名であることを根拠にしたのです。その後、大宮土壇説以外にも様々な説が出たのですが、結局、どこに藤原宮の位置があるかは分かりませんでした。
しかし、西暦1933年(昭和8)、大宮土壇の横で小学校の新校舎建設の際に、瓦や礎石(そせき)と思われる石材、加工された凝灰岩(ぎょうかいがん)が出土(しゅつど)したのです。これをきっかけとして、同年、奈良県史蹟調査会(ならけんしせきちょうさかい)が発掘を行ったのが藤原宮の発掘調査の始まりでした。
その翌年、三菱財閥(みつびしざいばつ)の岩崎小弥太(いわさきこやた)の援助を受けて創設された日本古文化研究所によって、大宮土壇周辺の発掘調査が開始され、その後、西暦1943年(昭和18)までの10年間にわたる調査によって、藤原宮の大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)などの宮殿の主要な施設の構造が明らかとなったのです。
その後、藤原宮の調査は一時中断しましたが、西暦1966年(昭和41)、国道165号線のバイパス工事に先立って奈良県教育委員会によって発掘調査が行われ、宮の北・東・西を区切る大垣(おおがき)が発見され、藤原宮の規模が確定しました。これによって、藤原京の研究は藤原宮の研究を中心とする時代から藤原京全体を研究する時代へと変わっていったのです。
藤原京の範囲は当初、北を横大路(よこおおじ)、東を中ツ道(なかつみち)、西を下ツ道(しもつみち)、南を阿倍山田道(あべやまだみち)によって区切られた範囲ではないかと考えられていました。この説は岸俊男(きしとしお)先生が唱えられ、非常に説得力に富んでいたので、長く定説となっていました。しかし、その後、岸説の藤原京の外側でも藤原京の道路の延長が次々と見つかり、現在では、藤原京は東西5.3キロメートル、南北4.8~5.3キロメートルの非常に広大な都であったこと、藤原宮は藤原京のほぼ真ん中に位置していたことが分かっています。
現在、藤原宮跡の調査は主に奈良文化財研究所が、藤原京の調査は、奈良文化財研究所の他に、奈良県立橿原考古学研究所や橿原市教育委員会によって行われています。

畑と藤原宮跡が見えるモノクロの航空写真

奈良文化財研究所蔵
国道165号バイパス路線の発掘

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奈良県橿原市川西町858-1(歴史に憩う橿原市博物館内)
電話:0744-47-1315
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