大極殿は日本最大の建物

更新日:2023年03月28日

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(だいごくでん)

大極殿は天皇が政治や儀式(ぎしき)をおこなう場で、まさに藤原宮の中心となる建物です。その大きさは正面45メートル、奥行21メートル、高さ25メートルと、当時、日本最大の建物だったのです。大極殿は大きさもさることながら、礎石建ちで瓦葺の屋根に朱塗りの柱と、非常に荘厳(そうごん)な建物だったでしょう。
この大極殿の前には、貴族や役人達が集まる朝堂院(ちょうどういん)があります。朝堂院は、12棟の瓦葺の建物が廷をはさんで向かい合って建ち並ぶ構造で、大極殿に近い建物ほど格の高い建物となっています。この朝堂院で、貴族や役人は位の高い順に整列し、儀式をおこなったのです。
また、大極殿の後ろには、天皇の住居である内裏(だいり)がありました。内裏の主要な部分は現在、醍醐池(だいごいけ)の下にあるため、どのような構造であったのかは分かっていません。しかし、内裏は瓦葺で荘厳な大極殿や朝堂院とは違い、これまでの宮殿と同じく、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの。穴を掘ってその中に柱を建てた建物のこと)で屋根も檜皮葺(ひわだぶき。ヒノキの皮で葺いた屋根)だったのです。
なお、大極殿は、平城京に遷都(せんと)する時に、平城宮に移築されたといわれています。今、平城宮跡に復原されている第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)がまさにその建物なのです。また、唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂(こうどう)は平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築し、鎌倉時代に改修したものです。平城宮の主要な建物は、平城京遷都の際に藤原宮から移築されたと考えられているので、唐招提寺の講堂はもともと藤原宮の朝集殿であったと考える説もあります。藤原宮跡には、大宮土壇(おおみやどだん)とその南に広がる野原しかありませんが、かつての姿を伝える建物は県内に存在し、私たちにその姿を教えてくれるのです。藤原宮跡の大宮土壇に立って、平城宮跡の大極殿から見た風景を想い起こすと、平城宮跡とはまた違った宮殿の姿が甦ってくるのではないでしょうか。

広大な土地の中に2階建ての大きな建物があり大勢の人が見学している写真

平城宮跡に復元された大極殿

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