藤原京の都市計画

更新日:2023年03月28日

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藤原京は、京内(きょうない)を東西・南北道路によって碁盤目状(ごばんめじょう)に区画する町割り(条坊制)を日本で初めて導入した都です。
この道路を設置するにあたり、その基準線となったのは横大路(よこおおじ)や下ツ道(しもつみち)といった当時の官道(かんどう)でした。これらの道路を規準に測量を行い、京内を碁盤目状に整備したのです。その上で、藤原宮などの位置が決められたと考えられています。
また、藤原京は、多くの人々が集中する「都市」である性格上、排水路(はいすいろ)を整備する必要がありました。これに大きな役割を果たしたのも道路でした。道路の両側に掘られた側溝(そっこう)は排水路として雨水や汚水を米川(よねかわ)などの河川に流す排水路網(はいすいろもう)だったのです。藤原京では、道路側溝だけでなく堀川(ほりかわ)も排水路として利用されており、大規模な排水路網が確認されています。
さらに、藤原京のある地域にはゆるやかな起伏がある他、藤原宮の南には日高山(ひだかやま)がありました。このような土地で広大で平坦な土地を得、道路を造るためには大規模な土地の造成や山の切り通しといった作業が必要でした。
つまり、藤原京の都市計画は、単純に碁盤目状に区切られた街並みを造るというものではなく、恒久的(こうきゅうてき)な都としてずっと使用するためのインフラの整備まで含めたものであったため、これまでの都づくりとは比べ物にならない労力が必要だったのです。
藤原京の都市計画の基準となった道路である下ツ道や横大路、朱雀大路を造るために切り通した日高山に立つと、当時の人の苦労がしのばれます。

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