天武・持統の都づくり

更新日:2023年03月28日

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(てんむ・じとう)

藤原京は天武天皇(てんむてんのう)が都の造営を始め、その妻の持統天皇(じとうてんのう)が完成させた都でした。
天武天皇は壬申(じんしん)の乱の後、新しい国づくりを進めるためには新しい都が必要だと考えたのです。『日本書紀』によると、西暦676年(天武5)には既に藤原京造営に着手したことをうかがわせる記事があります。その後、西暦684年(天武13)には、「宮室之地(みやどころ)」が決定しています。しかし、藤原京の造営は、西暦686年(朱鳥元)に天武天皇が崩御(ほうぎょ)したことで一時中断されます。天武天皇の遺志(いし)を継いだ妻の持統天皇(じとうてんのう)は西暦690年(持統4)に藤原京の造営を再開し、ついに西暦694年(持統8)年、藤原京へ遷都(せんと)を果たすのです。
発掘調査でも、天武天皇が早くから藤原京造営を行っていた証拠が見つかっています。それが先行条坊(せんこうじょうぼう)と呼ばれる道路です。例えば、本薬師寺(もとやくしじ)の下層では、本薬師寺の造営(西暦680年発願)の際に先行条坊が埋められたことが分かっています。また、藤原宮の下層でも同様な先行条坊が見つかっています。この先行条坊は宮の建設の際に掘られた運河よりも古く、宮が完成する前には埋められていることが明らかとなっていて、その時代もまた天武天皇の時代と考えられているのです。
また、都づくりは、道路整備、排水路網(はいすいろもう)の整備、土地の造成、資材の調達など全てがこれまでにない大規模なものだったのですが、工事では、古墳を削ったりして平坦な土地を造成することも必要でした。そのため、新しい都づくりでは、掘り起こした遺骸(いがい)の再葬(さいそう)も行われていました。

土に側溝を掘ってあり広い土地を区切ってある写真

奈良文化財研究所蔵

藤原宮内に残る条坊道路とその側溝跡

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