大変だった都の建設

更新日:2023年03月28日

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藤原京はこれまでにない規模の工事を伴っていました。土木工事だけでなく、宮殿を造る際の大量の資材(しざい)の調達(ちょうたつ)が必要となったのです。
土木工事では、道路の敷設(ふせつ)、川の流路の付け替え、土地造成だけでなく、京内の至る所にあった全ての古墳が削平(さくへい)されました。四条町(しじょうちょう)にある四条古墳(しじょうこふん)の藤原京造営時の削平は非常に有名です。また、道路の敷設では、藤原宮の南側にある日高山(ひだかやま)を削って朱雀大路(すざくおおじ)を造っています。
藤原京建設において宮殿の建設は、最先端の技術と大量の物資を必要としました。建物を建てるためにはまず数万本に及ぶ太い柱材と、大量の板材が必要となったのです。『万葉集』の中の「藤原宮の役民(えきみん)の作る歌」によると、滋賀県の田上山(たながみやま)から伐りだした桧材(ひのきざい)を筏(いかだ)に組んだとあります。瀬田川(せたがわ)や宇治川を下り、小椋池(おぐらいけ)からは木津川を遡り、泉の津(木津)で陸揚げし、奈良山は陸路で越えたのです。奈良盆地に入ってからは、佐保川(さほがわ)や寺川(てらかわ)などの水系を利用し、川のないところは運河を掘って、材木を藤原宮に運び込んだのです。その距離は約100キロメートル。非常に長い距離だったのです。
こうして運び込まれた木材は、宮で使用する各種の建築部材に加工され、組み立てられました。木材の加工には斧・手斧(ちょうな)・のこぎり・やりがんな・のみ・錐(きり)が用いられ、計測には曲尺や墨壺が使用されました。また、水平の決定には水盛りの方法が用いられていました。
なお、四条古墳は、橿原警察署の南西の交差点の位置にあり、現在は道路の高架下(こうかした)に四条古墳群の看板があります。また、日高山に造られた朱雀大路は現在、史跡として整備され、当時の姿を今でも見ることができます。

田上山から藤原京までの道を記した地図

田上山から藤原京へ

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