今井町の歴史

更新日:2023年03月28日

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今井町の歴史が感じられる木造平屋建ての通りを撮影した写真

今井町の歴史

一向宗の布教拠点として誕生。都市計画のもと、寺内町として発展

天文年間(1532~55)、本願寺の今井兵部によって建てられた称念寺が、今井町の起こりと言われています。農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進めるためでした。後には、諸国の浪人や商人が集められ、町場を形成しました。このような町を寺内町と言います。
世は戦国時代。野武士、盗賊、他宗派、大名などからの攻撃を避ける為に、周辺に濠と土居を巡らせ、僧侶や門徒を守るための武力が備えられました。見通しのきかない筋違いの道路や、九つの門跡がそれを物語っています。

物と文化が、華やかに行き交う、にぎやかな町に…

この頃、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対しており、各地で一向一揆が起こっていました。今井町も濠を深くし、厳重武装で反抗していましたが、本願寺の降伏に伴い、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしで武装放棄しました。
その後は、商工業都市として発展。俗に、「今井千軒」「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほどになっていきました。また、経済的に豊かな町民は、茶道などの文化・文芸にも従事し、華道・能楽・和歌・俳諧などが好まれ、各地との交流も盛んになりました。豊臣秀吉が、吉野詣での途中に今井の茶室で接待されたという記録もあります。

江戸幕府も一目置いた財力。特別の権利を許され、自治都市に。

17世紀後半、五代将軍綱吉の頃に幕藩体制が整うと、今井にも代官が置かれ、幕府領として支配されました。しかし、農村の多くが20~30軒程度だった当時、一千軒もの家を有する今井町は、破格の規模でした。しかも肥料・木綿・味噌・酒などの取引も盛んなうえ、大名相手の金融業者も活躍しました。藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」も流通し、「大和の金は今井に七分」「金の虫干し玄関まで」と言われるほどに繁栄していました。
これほどの財力は、幕府にとっても大きな魅力であり、他とは違う支配体制で今井町を優遇しました。惣年寄や町年寄を置き、警察権などを与え、自治的特権を与えたのです。親戚以外の者を町内に泊めることを禁ずるなど、町独自の掟も決められ、自治自衛が徹底されました。
一方、この財力に対して重税も課され、これが17世紀後半からの人口減少の原因ともなるのですが、今井町の経済力はその後も長く保たれました。やがて、明治維新により富豪が消滅、大正時代の鉄道開通で町の賑わいは駅周辺に移りましたが、むしろこうして訪れた平穏さが、この町の保持に貢献したとも言えます。後には町並み保存の動きも起こり、9件の建物が重要文化財に、また、3件が県指定文化財に指定されるなど、その文化的・歴史的価値の貴重さが広く認知されました。

参考資料

赤、青、黄、黒などで色づけられている今井古絵図の写真

今井古絵図

明智光秀から送られてきた朱印が捺印されている書状の現物の写真

明智光秀今井郷惣中宛書状

武装反抗後、降伏を求めていた今井に対し、明智光秀から降伏を許す旨の書状が届いた。ついで、信長からも赦免の朱印状が下されています。

織田信長から今井郷惣中宛に送られてきた朱印が捺印されている赦免状の現物の写真

織田信長今井郷惣中宛赦免状

豊臣秀吉から今井兵部宛に送られてきた朱印が捺印されている書状の現物の写真

豊臣秀吉から今井兵部宛の朱印状

徳川家康から発布された禁制の書状の現物の写真

徳川家康禁制

秀吉の死後、政権を担った家康が関ヶ原の戦いにあたって発した禁制。この戦後、今井は代官大久保長安の天領に編入されました。

今井町内で使用されていた3枚の紙幣(今井札)の現物の写真

今井札

商業活動の自由度が高かった今井町で発行された独自の紙幣。

江戸時代から残されている称念寺太鼓楼を撮影した写真

称念寺太鼓楼

今井町の歴史年表

今井町の歴史年表
年代 できごと
12~13世紀 高市郡今井庄が成立する。
至徳3年(1386) 興福寺領今井庄が文献にはじめて表われる。
16世紀まで興福寺領として存続した。
天文年間
(1532~1555)
今井寺内町(武装宗教都市)が整う。
元亀元年(1570) 本願寺に呼応し今井も武装都市化する。
環濠・土居の始まりか。
天正3年(1575) 今井郷民、信長軍に降伏する。
文禄4年(1595) 太閤検地で今井村と記され、計六町を数える。
寺内町の性格を残す。
(注意)家持466人 屋敷筆数522
(人口4,000人 家数1,200件前後、と伝える)
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦後、一時幕府の天領となる。
元和7年(1621) 今井兵部が今井の支配を命じられる。
今西・尾崎両氏が惣年寄に指名される。
寛永11年(1634) 銀札(今井札)発行を許される。
寛永16年(1639) 惣年寄役に新たに上田氏を加える。
延宝7年(1679) 再び天領となる。-今井最盛期。
(注意)人口4,000人 家数1,082軒
元禄10年(1697) この頃、金融業を営み大名貸しをする者が多くなる。
元文5年(1740) 重税のため町民困窮し、この頃から戸口減少、町内に空き地が目立ち
始める。-今井衰退の兆し
(注意)人口3,766人 家数924軒
享和4年(1804) (注意)人口2,795人 家数797軒
安政元年(1854) 東海道、東山道など大地震。
明治2年(1869) 版籍奉還、高取県に属する。
明治4年(1871) 奈良県に属する。惣年寄今西氏が引き続き、市中取り締まりを命じられる。
明治10年(1877) 明治天皇が今井へ行幸される。(称念寺行在所)
明治22年(1889) 小綱と併せ今井町となる。
昭和2年(1927) 奥丹後大地震。
昭和9年(1934) 室戸台風。
昭和11年(1937) 二上山地震。
昭和30年(1955) 東京大学による町家調査が行われる。
昭和32年(1957) 今西家が重要文化財に指定される。「今井町史刊行」
昭和36年(1961) 第二室戸台風。
昭和47年(1972) 旧米谷家・高木家・音村家・中橋家・豊田家・上田家が重要文化財に
指定される。
昭和51年(1976) 河合家が重要文化財に指定される。
昭和56年(1981) 吉村家(旧上田家)が県文化財に指定される。
昭和60年(1985) 山尾家が県文化財に指定される。
平成2年(1990) 旧高市郡教育博物館(現今井まちなみ交流センター華甍)
県文化財に指定、同館内に今井町並み保存対策準備室を開設する。
平成5年(1993) 今井まちなみシンポジウムを開催する。
重要伝統的建造物郡保存地区に選定される。(12月8日)
平成7年(1995) 阪神、淡路大震災起こる。
平成9年(1997) 全国伝統的建造物郡保存地区協議会が開催される。
平成10年(1998) 今井町フォーラムを開催する。
台風7号が家屋に大きな被害を残す。
平成11年(1999) 「災害に強いまちづくり」シンポジウムを開催する。
平成14年(2002) 称念寺本堂、重要文化財に指定される。
平成15年(2003) 全国町並ゼミ かしはら・今井大会を開催する。

この記事に関するお問い合わせ先

今井町並保存整備事務所
奈良県橿原市今井町1-10-9
電話:0744-29-7815
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