明智光秀 今井郷惣中宛書状

更新日:2023年03月28日

ページID: 3786

(あけちみつひで いまいごうそうちゅうあてしょじょう)

【市指定文化財】

明智光秀 今井郷惣中宛書状の詳細

員数

1幅

形状・寸法など

  • 紙本墨書、幅装(折紙改装)、楮紙
  • 縦27.0センチメートル、横44.5センチメートル

年代または時代

戦国時代
1575年(天正3)9月27日

大坂石山本願寺を総本山とする一向宗は、興福寺勢力の強かった大和盆地へはなかなか進出できませんでした。しかし、天文初年頃、今井に一向宗門徒の説教所ができると、次第に勢力を占め、多くの信仰者を集めました。そして土豪牢人、富商を呼び寄せ、大坂に応じて小都市をつくるに至ったのです。

しかし、織田信長の進出以来、信長が本願寺と戦いを交えることとなり、今井も大坂に一味同心して、信長の武将明智光秀、筒井順慶の包囲軍と対峙しましたが、交渉の末、遂にこれに降服しました。

本書状は1574年(天正2)に信長から今井郷に対し降服勧告があったことを示しています。その条件とは土居構を崩し、土民の列に復帰し、武装しないということでした。

それは信長、光秀と緊密な関係にあった堺の豪商天王寺屋津田宗及が斡旋したもので、あったといわれています。本書状は宛名に「河瀬兵部丞殿」と加筆された部分を除けば、明智光秀の直筆です。

この記事に関するお問い合わせ先

文化財保存活用課
奈良県橿原市川西町858-1(歴史に憩う橿原市博物館内)
電話:0744-47-1315
お問い合わせフォーム

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか?
このページは見つけやすかったですか?
このページは役に立ちましたか?
その他、このページに関してご意見がありましたらご記入ください。
橿原市からの回答が必要な場合は、直接担当課へ連絡されるか、問合せメールフォームでお願いします(こちらに入力されても回答できません)。また、住所、電話番号などの個人情報はこちらには入力しないでください。