東の平田家(旧旅籠)

更新日:2023年03月28日

ページID: 3755

(ひがしのひらたけ きゅうはたご)

「八木札の辻」を挟んで東側の平田家(旧旅籠)の外観を斜めから写した写真

【市指定文化財】

東の平田家(旧旅籠)の詳細
所在地 北八木町
建築年代 18世紀後半~19世紀前半
構造形式
  • 主屋:木造2階建、桁行14.55メートル、梁間9.63メートル
    南側入母屋造、北側切妻造、西側本瓦葺、東側桟瓦葺
  • 角屋:木造2階建、桁行6.00メートル、梁間9.64メートル、主屋東南部に接続
    東側切妻造、南側本瓦葺、北側桟瓦葺、東、西、南、北側庇桟瓦葺

平田家は古代大和の主要道路「下ツ道(しもつみち)」と「横大路(よこおおじ)」との交差点である「八木札の辻」を挟んで西側の平田家、東側の「平田家」が向かい合って立地し、いずれも江戸時代の旅籠(はたご)の風情(ふぜい)を残している建物です。
江戸時代中期以降「八木の札の辻」界隈は、伊勢参りや大峯への参詣巡礼などで、特に賑わっていたと推測されています。平田家に保存されている古文書『大阪浪速講 伊勢道中記 御定宿附(おおさかなにわこういせどうちゅうきおさだめやどふ)』は大阪から伊勢に至る約60軒の旅籠を記した当時のガイドブックで、平田家は、『八木 木原屋(きはらや)嘉右衛門』として紹介されています。また『西国三十三所名所図会』の『八木札街』にも中央に高札、現在も残存している六角形枠の井戸を中心とした町の賑わいを表現されています。絵図には東の平田家と西の平田家が描かれており、どちらも南側が入母屋造で、2階街道筋に手摺りが回されている様相は、今もその面影をよく残しています。絵図は1853年(嘉永6年)に描かれているので、少なくともそれ以前からあった、と考えられます。
今のところ棟札などの直接的な根拠は確認できていませんが、古文書、構造手法、鬼瓦の箆書(へらがき)などから、18世紀後半~19世紀前半を降らないと考えられます。東の平田家の主屋は「下ツ道」と「横大路」の交差する東北角に建ち、東南側の「横大路」に面して角屋が付属し、その北側に坪庭があります。1階の庇はかつて出桁(でげた)に柱を建てていましたが、後に柱を抜き取り、現在は持送りにて軒を支えています。また2階の大屋根も軒の出が大きく、腕木(うでぎ)を出し、出桁によって支えられています。主屋1階は南側に土間をとった2列6室型です。北側筋の2室には奥行きの浅いトコとタナを設け、南側の室とは板戸と襖の2重の仕切りを設けています。東側筋の2列目に当初からのものと思われる幅の広い階段が現存します。主に2階部分が客室として使われていました。西側筋に4室、東側筋に2室と階段を含んだ板間があり、西側と南側の街道筋には欄干がめぐらせてあります。2階部分は旧状をよくとどめており、北側筋の2室には、1階と同様、奥行の浅いトコ・タナを設けています。小屋梁は、平均径で25.0~30.0センチメートルの杉丸太で、東・西入側筋より東・西に架けています。中央部分でやや弓状にむくり上がる材を使用し、すべての各客間間仕切り部分に取付きますが、長さ約8.0メートルの長尺の梁です。中央部分は部屋境の柱天端で受けて小屋束を建て、母屋を受けています。真束は小屋梁中央上端に架る桁行梁に建て、棟木を受けています。主屋2階西側、南側は軒の出が大きいため、出桁から桔木(はねぎ)を用いて11箇所吊り上げています。屋根も再三葺替えられており、現在背面部分、庇部分が桟瓦葺となっていますが、古くは本瓦葺と考えられます。なお、大棟南側の鬼瓦の東肩に「天保七申六月作」の箆書(へらがき)も発見されているので、葺替えの一時期が知られ、これに類する瓦も多く残存しています。

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