十市城跡

更新日:2023年03月28日

ページID: 3842

(とおいちじょうあと)

この遺跡は、北の磯城郡田原本町(しきぐんたわらもとちょう)と隣接した市の北東にあたり、寺川右岸の自然堤防上に位置しています。筒井城(大和郡山市)と同様に中世大和における典型的な平城で、十市氏が鎌倉時代後半から江戸時代にかけて居城しました。城は、十市町旧集落北部の一辺約70メートル四方の微高地(比高差約1メートル)があり、これを中心部分(主郭)として広がっていたものと思われます。その規模は、微高地の周りに遺存する「唐堀・古市場・大門・的場・下殿口・中殿内」などの小字名や地割などから東西550メートル・南北430メートルと推定できます。

十市氏の出自は不詳であるが、南北朝期(14世紀)に興福寺(奈良市)大乗院の国民(十市庄荘官)として初めて現われます。1347年(貞和3年)の興福寺造営段米幵田数帳(こうふくじぞうえいたんまいならびにでんすうちょう、春日神社文書)に、十市新次郎入道が十市小垣内(おがいと)・常磐庄を配したことが記されています。その後、永享の乱(1438年)以来筒井党に加わり成力を拡大し、室町時代末期・天文年間(1532~1555年)の遠忠(とうただ)の代に最盛期を迎えることとなり、壮大な山城である龍王山(りゅうおうざん)城(天理市)をも築きました。

これ以後は、幾多の戦乱に参加しているが、1575年(天正3年)に織田信長の配下となりました。また、ルイス・フロイスが記した「日本史」によれば、1555年(永禄8年)に宣教師のルイス・デ・アルメイダは、十市城主を「サンチョ=イシバシ殿」と報告しています。

発掘調査は、主郭部分の北側と南側の2ヶ所で、1987年(昭和62年)とその翌年の2ヶ年にわたって行われました。
北側の調査では、室町時代後半(15~16世紀)の東西方向の幅2メートル以上・深さ1.5メートル・長さ80メートル以上の溝が確認されました。この溝は、主郭部分の西端と対応するところで途切れていますが、南に曲がる可能性が充分に考えられます。

また、南側の調査においても幅約7メートル・長さ45メートル以上の東西方向の大溝が確認されました。この大溝は、主郭部分のほぼ中央で終焉しており、南からの導水と考えられる幅約3メートルの溝が接続していました。この大溝の終焉は、主郭部分の中央南正面にあることから、郭外と郭内を結ぶ通路(土橋)の西肩の可能性が高いと思われます。

出土した遺物には、中国製の白磁碗、青磁碗・盤や高麗(こうらい)製の青磁壷などがあります。このような庶民が持つことのできない輸入磁器を保持できるということは、十市氏の勢・財力が相当強く、大きなものであったことが発掘調査によっても明らかになったと言えるものでしょう。

中央の畑地が主郭部分で、それを東から撮った航空写真

航空写真(東から)
中央の畑地が主郭部分

主郭部分を南西から撮った写真

主郭部分(南西から)

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