橿原市の平安~江戸時代 詳細
和銅三年(710)、藤原京から平城京(奈良市、大和郡山市)に遷都した後、市域はどのように利用されていたのでしょうか。
多くの人々は遷都とともに平城京へ移り住み、もとの居住地は田畑に開墾され、整備された街並は日毎その姿を変えていったことでしょう。藤原京があった時の道路や宅地には、田畑の耕作の跡を示す小溝や牛の足跡が発掘調査により、多く確認されています。
平安時代、都が京都に移ると奈良は、より一層の地方化が進み、土地が荒廃していきました。貴族たちは荒れた土地を耕し、荘園と呼ばれる私有地を増やしていきます。また興福寺や東大寺などの寺院も貴族と並んで荘園を増やし、もはや国司の支配権が及ばない土地が大和平野に広がりをみせるのです。
鎌倉時代になると、鎌倉幕府は大和国に守護を置くことをせず、興福寺が国司として支配することを黙認しました。そのため、興福寺は大きな勢力を持ち、在地の実力者を家来とし、宗教のつながりによる主従関係をもった特殊な武士団が成立しました。
その後室町時代から南北朝時代には、市内北部では十市氏が、南部では越智氏が二大武士団の中核をなしていきます。戦国時代になると、両氏は筒井順慶、松永久秀の対立抗争に巻き込まれていきましたが、やがて大和武士団のなかでの戦いも、天下統一という大きな流れに押され、統一を果たした豊臣氏による領主支配が行われるようになります。
江戸時代になると、関ヶ原の戦いに勝利した徳川氏による領主支配に切り替えられていきます。市域では、室町時代に「寺内町」として成立した今井町が商業都市として発展を遂げ、横大路(伊勢街道、初瀬街道)と下ツ道(中街道)の交叉点に当たる札の辻を中心とする八木町も大和の重要な交通路として発展します。
このような時代の移り変わりは、城跡や環濠集落、屋敷地、火葬墓群、木棺墓などの遺跡に見ることができます。また今井町では、今も当時の町並みを見ることができ、“重要伝統的建造物群保存地区”に指定されています。
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更新日:2023年03月28日