山城跡
(やまじろあと)
貝吹山城跡(かいぶきやまじろあと)
高市郡高取町越智の居館・越智城を本拠地とした越智氏の山城で、高取町と接する貝吹山の頂上、標高210メートル付近にあります。築城は南北朝時代(14世紀)とされています。越智氏はこの山城以外に高取城・佐田城(高取町)や玉手城(御所市)の山城を有していました。城の発掘調査が行われていないので詳しいことは不明です。
現在は、南北方向の頂部の曲輪(くるわ)と崩壊した石垣が確認できるに過ぎませんが、主郭を中心に四方の屋根上に諸郭が設けられ、連郭を成していたようです。越智氏は、応仁の乱(1467~77年)前後の室町時代後半(15世紀末)にその最盛期を迎えます。しかし、戦国時代(16世紀中頃)になると他の国衆と同様に幾多の戦乱に参戦し、貝吹山城も戦場と化したようです。そして、永禄十一年(1568年)に織田信長方の松永氏との合戦で越智氏は敗れ、貝吹山は落城しました。
戒外山城跡(かいげやまじろあと)
香久山の東南域(戒外町)で、1993年(平成5年)に行われた発掘調査において、文献には見られない鎌倉時代後半(13世紀後半)から室町時代前半(15世紀中頃)にかけての山城が新たに確認されました。
山城は、南西から北東方向の屋根の頂部に展開していたようですが、建物などは確認されませんでした。しかし、屋根の先端に両裾からそれと直交するかたちで延長約30メートルの濠割(ほりわり)とその外側に土塁(どるい)が巡っていました。
濠割は、幅約1.5メートルで「V」字形に掘られており、その掘削土を積み上げ「台形」の土塁を構築しています。なお濠割底部と土塁頂部との比高差は1.2~1.4メートルをはかります。出土遺物は少量の土師器、須恵器と軒平瓦などがあります。この山城は、細い屋根上に小規模に設けられていることから、有事の際における砦・逃げ城のような性格を果たしていたものと考えられ、周辺の平坦地に本拠となる館が存在している可能性が充分考えられます。また、興善寺跡の火葬墓群の造墓と山城の築造がほぼ同時に開始されていることは、両者に何らかの要因があったことが充分考えられます。

貝吹山城跡遠景

貝吹山城跡頂部の主郭の状況

貝吹山城跡頂部の主郭の状況
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更新日:2023年03月28日