医薬とまじない、そして墓

更新日:2023年03月28日

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多くの人々が集まり住む都では、疫病(えきびょう)の流行が大きな社会問題となりました。し尿処理やゴミ処理、上水の確保などが不十分なまま、数万の人口を集中させたからです。政府はこの社会問題に対し、医療制度(いりょうせいど)を整えました。役人の医療にあたる典薬療(てんやくりょう)、天皇や皇族の診療にあたる内薬司(ないやくし)などの医局を置くとともに、薬園(やくえん)を経営したり、全国各地から薬草などを集めました。藤原宮からは、薬名を書いた木簡(もっかん)だけではなく、処方箋や漢方の教科書を写した木簡も出土しています。一方、病気は身体につく「けがれ」や「もののけ」が原因と信じられていたので、人形(ひとがた)や馬形(うまがた)を使うまじないによる治療も盛んにおこなわれました。

天皇や皇族は、京の南の丘陵地帯に葬られました。野口王墓(天武・持統天皇合葬陵)や高松塚古墳(たかまつづかこふん)は有名です。仏教による火葬(かそう)も藤原宮の時代にはじまりました。持統天皇は、自ら火葬されることを望み、これをきっかけに、火葬の風習は大いに普及しました。一方、庶民の墓がどのようなものだったのかは、よくわかっていません。

にんじん、うこぎ、ききょうの薬名が記された古びた3つの木簡の写真
左から、木々のあるモノクロの丘の写真、丘陵地帯にある古墳の写真、天皇たちの様子が描かれた絵画の写真

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