藤原宮のその後

更新日:2023年03月28日

ページID: 3870

(ふじわらきゅう)

西暦710年(和銅3)、元明天皇(げんめいてんのう)は都を藤原京から平城京へ遷し、藤原京は首都としての役割を終えました。その理由は、衛生的な問題、地理的な問題だけでなく、大宝律令(たいほうりつりょう)のもとで新しい政治を行うための総仕上げの事業としての必要性、粟田真人(あわたのまひと)が持ち帰った最新の中国都城の情報と藤原京の実態があまりにもかけ離れていた現実といった政治的な理由も大きかったに違いありません。いずれにしても様々な問題がからみあった結果、遷都に至ったのでしょう。
平城京遷都に伴って藤原京の住民である貴族や役人は、新しい都に移っていきました。その時に藤原京で使用した建築部材など、再利用できる物資は全て平城京に運ばれていったのです。藤原宮も例外でなく、瓦や柱などの建築部材を平城宮で使用するために宮内の建物は解体されました。こうして恒久的(こうきゅうてき)な都として造られた初めての都である藤原京はその役割を終えたのです。
しかし、藤原京の跡地には、本薬師寺(もとやくしじ)や和田廃寺(わだはいじ)などの寺があった他、奈良時代には香具山の西北麓に「香山正倉(かぐやましょうそう)」がありました。これは、税として集めた稲を管理する役所で、大きな倉庫や運河が発掘調査でみつかっています。
その後、藤原京の範囲は水田地帯となり、かつて都があった場所は田園風景にかわっていきます。藤原宮の一帯にも平安時代になると「宮所庄(みやどころのしょう)」や「高殿庄(たかどののしょう)」などの荘園がおかれ、水田地帯となっていったのです。こうして藤原京はその痕跡を消していきました。

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