新しい政治のしくみ

更新日:2023年03月28日

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藤原宮の時代は、日本が東アジアの中で文明国家の体裁を整える大きな転換期でした。西暦701年(大宝元)、日本の政治の基本となる法律である大宝律令(たいほうりつりょう)が制定され、中央官庁の名前や組織も大きく改められました。太政官(だじょうかん)と神祇官(じんぎかん)を筆頭(ひっとう)とする「二官八省制(にかんはっしょうせい)」がとられたのです。
地方行政の仕組みも整えられ、国-郡-里が地方行政の単位と決められました。これは今の都道府県および市町村に相当する行政単位です。特に「郡」はこの時に「評」から「郡」に改められました。大宝律令の制定をきっかけに、中央から地方に派遣(はけん)した「国司(こくし)」の権限(けんげん)を強化し、それぞれの地域の豪族(ごうぞく)が兼務した「郡司(ぐんじ)」の権限を縮小し、日本の政治体制は中央集権体制へと大きく進むことになったのです。
また、大宝律令の制定による組織の改変は藤原宮にも影響を与えたと考えられています。藤原宮が造られた当時は、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が法律でした。ところが、大宝律令の制定によって、組織の改変が行われたため、宮内の官衙(かんが。役所のこと)も建て替えなどの必要がでてきたと考えられます。藤原宮内の発掘調査では、官衙の建て替えが多くみられますが、その理由として大宝律令の制定による組織改変があったのではとも考えられています。

新しい政治の仕組みで役所名が書いてある木箱評の写真

奈良文化財研究所蔵
役所名を書いた木簡 評から郡へ

藤原宮の役所機構図

藤原宮の役所機構図

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