橿原市の縄文時代 詳細

更新日:2023年03月28日

ページID: 3809

奈良盆地内における遺跡の多くは弥生時代以降で、それ以前の旧石器・縄文時代の遺跡は極めて希薄な状況にあります。戦前に一大発掘調査が行われた橿原遺跡は縄文時代晩期の代表的な遺跡として全国的に知られているものの、本市でも同様な事が言えます。橿原遺跡を除いては縄文時代の遺跡は数ヵ所の遺物散布地が知られている程度です。しかしながら近年、偶然に藤原京跡の下層部分で縄文土器が発見されました。
各時期別に市内の出土例をみていくと、まず草創・早期では、有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が夫婦池(めおといけ)周辺と新沢千塚の丘陵の一端から各々採集された報告があります。しかし、周辺に遺跡が存在したかどうかは不明です。当該期の遺跡は、県内をみても山間部に集中しています。盆地内では縁辺部で数ヵ所認められる程度で、盆地の中心の低地部では出土していません。
前期になると、藤原京跡の下層から数点の北白川下層式土器が出土しています。
中期のものでは、飛鳥川右岸に位置する藤原京右京五条四坊(小房町)で、船元式土器の破片が河道内から数点出土しています。また、貝吹山から北に延びる丘陵の北端に位置する鳥屋遺跡でも、戦前の暗渠排水工事の際に中期後半の土器が数点発見されています。
後期では、耳成山の北方に位置する下明寺遺跡で、元住吉山式土器の破片が出土しています。この他、晩期に盛行する橿原遺跡にも当該期の土器が認められます。文久三年(1863)に、その北側の畝傍北山麓でおこなわれた神武陵築造の際に後半期の土器がほぼ完形に近い形で発見されています。市の近辺では、天香久山の南に位置する大官大寺下層遺跡(明日香村)から中期末から後期初頭にかけての重要な土器が出土しています。
晩期の出土例は、橿原遺跡・曲川遺跡・坪井遺跡などがあります。また、藤原京内など他遺跡においても、下層部分などから出土する例が増加しており、当該期になると市内のほぼ全域に認められるようになりました。
市内の縄文時代の遺跡は、低地部に位置するため、未確認の遺跡の存在も充分に考えられます。居住地が水際であったことを前提にすると、遺跡の立地も重要な視点の一つと言えます。遺跡の立地は、標高の高い南部中心から沖積に伴う盆地の形成により徐々に標高の低い市の北部でも出土が認められるようになります。中期になると市中央部の飛鳥川に接した藤原京右京五条四坊地点からは中期初頭の土器が出土しており、既にこの付近に微高地が存在していたと考えられます。後期・晩期になると、更に北側の寺川と米川に挟まれた坪井遺跡(常盤町)や、葛城川と曽我川に挟まれた曲川遺跡(新堂町)など更に低い地点で、肥沃地・微高地上に遺跡の存在が認められます。市内では北側の標高60メートル付近まで、縄文土器の出土が確認できています。盆地中央部の標高40メートル付近まで縄文土器の出土が認められており、従来考えられていたより低地で、既に縄文時代晩期から遺跡が存在していたことが明らかになっています。晩期の土器は、後続する弥生時代の遺跡で出土するケースも多く、この時期に稲作受容に伴う何らかの変化があったものと考えられます。

この記事に関するお問い合わせ先

文化財保存活用課
奈良県橿原市川西町858-1(歴史に憩う橿原市博物館内)
電話:0744-47-1315
お問い合わせフォーム

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか?
このページは見つけやすかったですか?
このページは役に立ちましたか?
その他、このページに関してご意見がありましたらご記入ください。
橿原市からの回答が必要な場合は、直接担当課へ連絡されるか、問合せメールフォームでお願いします(こちらに入力されても回答できません)。また、住所、電話番号などの個人情報はこちらには入力しないでください。