日本国はじまりの地「橿原(かしはら)」
橿原市には、日本で最初にできたものが2つあります。
1つは、条坊制の都(みやこ)「藤原京」
1つは、体系的な法律「大宝律令」
この2つが揃った後、天皇を中心とした中央集権国家が生まれ、日本は自らを「日本」と名乗り上げます。
それはまさに「日本」という国のはじまりであり、橿原市は「はじまりの地」なのです。
日本で最初の都「藤原京」
1300年余り前、大和三山(耳成山・畝傍山・香久山)に囲まれたここ橿原に日本で最初の都(みやこ)「藤原京」が作られました。都とは今の首都です。
それまでは、天皇の住まいである宮殿を、天皇が変わる度に建て替えていたので、都というものは存在しませんでした。しかし、当時強大になっていた唐(今の中国)に対抗するため、第40代天武天皇は天皇中心の強固な集権国家を作る計画を立てました。
そして、唐の都にならい、唐の歴史書を参考に計画された「藤原京」は、第41代持統天皇によって694年に完成しました。その後、文武・元明の3代にわたって統治されました。
最大の都
奈良の平城京、京都の長岡京、平安京。
有名な古代都市の中で、藤原京が最大であることが最新の調査で分かりました。
10里(5.3キロメートル)四方、面積は約25.4平方キロメートル。北は橿原ICから南は新沢千塚古墳群公園あたりまで、徒歩で約1時間半の距離があります。
都のしくみ
藤原京は、条坊制の都です。
これは、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(条)と東西の大路(坊)で碁盤の目状に街を区切った、左右対称・方形の都市のことです。
この藤原京の中央に、天皇が住まう「藤原宮」がありました。藤原宮の大きさは約1キロメートル四方で、その跡地が「藤原宮跡」となっています。
「藤原京」は藤の花が咲く都?
今私たちが使っている「藤原京」という名称。これは大正~昭和時代の歴史学者の喜田貞吉氏が付けたものです。
当時の名称は、日本書紀などの歴史書では「新益京」と書かれており、これは飛鳥にあった「倭京」に対して「新たに付け加えた都」という意味がありました。
では、藤原京という名称の由来は?
これは万葉集に登場する地名「藤井ヶ原」「藤原」であると考えられます。万葉集には「藤原京御井歌」という長歌が収められており、宮殿が「藤井ヶ原」という場所にあり「藤原京」と呼ばれていたことが分かります。
かつては藤が咲いたり、綺麗な湧き水の出る井戸があったりしたため、その地名になったのかもしれません。
日本で最初の体系的な法律「大宝律令」
701年に文武天皇の命で編纂が進められていた「大宝律令」が完成しました。
これは日本ではじめての体系的な法律であり、この完成により天皇を中心とした中央集権的な国家体制が出来上がりました。大宝律令は刑法にあたる律と、現代の行政法・民法にあたる令からなり、唐の律令を参考にしつつも、日本社会の実情に即して改変されたものでした。
この時作られた政治の仕組みは、基本的には江戸時代まで続きました。
中央集権国家ができるまで
大宝律令により、中央官庁の名前や組織は大きく改められました。太政官(だじょうかん)と神祇官(じんぎかん)を筆頭とする「二官八省制」がとられ、行政の仕組みが整えられました。
一方で、地方行政の仕組みも変わりました。国・郡・里(今の都道府県・郡市・町村に相当する)を単位と決め、古くは「評」としていたものを「郡」に改めました。これを機に、中央から派遣する国司の権限を強化し、地元の豪族が兼ねていた地方行政官「郡司」の力を弱め、中央集権国家としていったのです。
「日本」という国号のはじまり
「藤原京」の時代、「大宝律令」により政治の仕組みが出来上がり、日本の文明国家としての体裁が整えられました。この時代、唐に渡った遣唐使は初めて「日本」という国号を使いました。(それまでは「倭」と呼ばれていました。)
このことは、「続日本紀」における遣唐使からの報告内容の部分に明記されています。日本の正式な文書で「日本」という国号が記載されたのは、これが最初であると言われています。
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更新日:2023年08月30日