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橿原市の道路と線路

更新日:2023年03月28日

ページID: 12218

交通の要衝、橿原市について。その歴史を振り返ります。

古道

横大路

日本最古の官道(国道)で、奈良盆地を東西に走る大道。

日本書紀の推古21年(613年)の条に「難波から都に至るまで大道を置く」と記されており、飛鳥宮から難波宮を結ぶ道として整備されました。

桜井市の三輪山の南から、葛城市の二上山付近までほぼ直進しており、東側は伊勢街道・初瀬街道へ、西側は竹内街道・長尾街道へ接続しています。現在の国道165・166号線に一部重なるか、並行しており、距離は約13キロメートルになります。

初期の大和朝廷にとって重要な道であり、飛鳥・藤原京時代には多くの外交使節が利用しました。また、江戸時代には伊勢神宮へのお陰参りの参道として賑わいました。

下ツ道

大和三道のうちの一つ。官道で、奈良盆地を南北に走る大道として整備されました。

日本書紀の壬申の乱(672年)では登場していますが、建設時期には諸説あり判明していません。

丸山古墳の前面を起点として、藤原京の西四坊大路から、奈良盆地の中央を北へ直進し、平城京の朱雀大路に至ります。国道24号線の約240メートル西に並行しており、距離は約24キロメートル、道幅は22~24メートルにもなりました。

奈良時代には、飛鳥・藤原京と平城京を直線でつなぐ大道として盛んに利用されましたが、平安京への遷都以降は廃れ、一部は耕作地へと変わりました。

その後、中世以後は中街道と呼ばれるようになって賑わい、特に八木町周辺は交通の要衝として栄えました。

国道24号線ができ、自動車が普及するまでは、奈良盆地の主要な幹線道路でした。

「八木」と横大路と下ツ道

八木札の辻交流館の写真

八木札の辻交流館

古代、東西の横大路と南北の下ツ道(後の中街道)とが交わる一帯に、交通の要衝がありました。

中世の古文書によると数百間の屋形が立ち「矢木市」と呼ばれた場所は、現在の「八木」になります。栄えていた矢木市ですが、横大路の北側が十市郡に、南側が高市群に属したことで豪族支配の境界となり、両者が争いを起こすと、町屋はその都度、兵火に焼かれました。

江戸時代になるとようやく戦乱が途絶え、元禄時代に北側が幕府直轄の天領になった後、発展は安定しました。江戸時代の中期以降は、吉野・高野詣や大和巡り・伊勢巡りのために、全国から大勢の人々が訪れるようになり、街道町として栄えました。同時に、奈良盆地南側の拠点としても注目を浴びます。

西国名所図会には、町の中心として「札の辻」の賑わいぶりが紹介されています。

阿倍山田道

7世紀に造られた最初の官道のひとつ。阿倍寺や山田寺を結ぶため、阿部山田道と呼ばれました。近鉄橿原神宮前駅の東側にある丈六の交差点から、桜井市阿部付近へ続いており、北側で横大路に接続します。遣隋使が飛鳥へ入った際に使用した道とされています。

関連リンク

駅と線路

橿原市の駅と線路の変遷
年月日 駅名 線路名 内容

1893年5月23日

畝傍

大阪鉄道⇒関西鉄道⇒国有鉄道(桜井線)

高田から今井を通過して桜井へ至る橿原市最初の線路。開通当初は蒸気機関車が走っていた。

1913年4月21日

金橋
香久山

国有鉄道(桜井線)

 

1923年3月21日

新ノ口
八木
畝火山
橿原神宮前

大阪電気軌道(畝傍線)

平端~橿原神宮前間が開通し、橿原市初の電車が走った。畝火山から橿原神宮前間は、現在の橿原線より300メートル西にあり、橿原神宮前は、現在の一の鳥居前円形の森付近にあった。

1923年12月5日

久米寺
岡寺

吉野鉄道

橿原神宮前から吉野駅(現在の六田)が開通。

1924年

畝火山
⇒畝傍山

大阪電気軌道(畝傍線)

改称。

1924年11月1日

 

吉野鉄道

吉野鉄道が延長し、橿原神宮前から畝傍まで延長する。

1924年3月21日

真菅

大阪電気軌道(八木線)

高田~八木間が開通する。

1928年8月

八木
⇒大軌八木

大阪電気軌道(八木線)

改称。

1928年10月15日

小房

吉野鉄道⇒大阪電気軌道(吉野線)

吉野鉄道の畝傍~橿原神宮前間に小房駅が開通する。

1929年1月5日

大軌八木
⇒(移転)
⇒八木西口
耳成

大阪電気軌道(八木線)⇒大阪電気軌道(桜井線)

上本町~大軌八木~桜井間が開通。上本町から大軌八木への電車線が駅西方で分岐し畝傍線と接続する。この時、大軌八木駅を移転し、元の駅の位置に八木西口駅を設置する。

1929年3月29日

坊城
大和池尻
橿原神宮

大阪鉄道

古市~久米寺間を開通する。

1930年

 

大阪電気軌道(畝傍線)

橿原神宮前から久米寺まで延長する。

1937年

畝傍山
⇒神武御陵前

大阪電気軌道(畝傍線)

改称。

1939年

神武御陵前
⇒畝傍御陵前

大阪電気軌道(畝傍線)

紀元2600年の橿原神宮域整地・拡張等のため大軌(畝傍線)を現在の近鉄橿原線の位置に移動。

1939年7月28日

久米寺
⇒橿原神宮駅

大阪電気軌道(畝傍線)⇒大阪電気軌道(橿原線)

橿原神宮前駅を廃し、久米寺駅の位置に橿原神宮駅駅を設置する。また線路名改称。

1939年8月15日

橿原神宮

大阪鉄道

廃止。

1940年4月1日

久米寺
⇒橿原神宮駅
大和池尻
⇒橿原神宮西口

大阪鉄道

改称。久米寺駅は橿原神宮駅駅となる。

1940年

畝傍

国鉄桜井線

昭和天皇の橿原神宮行幸に合わせて、木造瓦葺きの駅舎を建築する。

1941年3月15日

 

大阪電気軌道⇒関西急行鉄道

大阪電気軌道が參宮急行鉄道を合併し、商号を関西急行鉄道に変更。

 

大軌八木
⇒大和八木

関西急行鉄道(桜井線)⇒関西急行鉄道(大阪線)

改称。

1943年2月1日

 

大阪鉄道⇒関西急行鉄道

大阪鉄道が関西急行鉄道に合併される。

1944年6月1日

 

関西急行鉄道⇒近畿日本鉄道

関西急行鉄道(大軌・大鉄)が近畿日本鉄道になる。大軌桜井線は近鉄大阪線、大軌橿原線は近鉄橿原線に、大鉄線は近鉄南大阪線となる。

1945年6月1日

 

近鉄小房線

畝傍駅~橿原神宮駅間の小房線が運輸営業を休止し、国鉄貨物の運行のみとなる。

1950年7月1日

 

近鉄小房線

営業休止

1952年4月1日

小房

近鉄小房線

廃線

1952年

畝傍

国鉄桜井線

平成天皇の橿原神宮行幸に利用。その後、貴賓室は閉鎖し、時折一般公開される。

1970年3月1日

橿原神宮駅
⇒橿原神宮前

 

改称。

1987年4月1日

 

国鉄⇒西日本旅客鉄道

国鉄分割民営化によりJRとなる。

2014年11月15日

橿原神宮前

近畿日本鉄道

平成天皇のお召し列車が停車する。

大和八木駅と電車

近鉄大和八木駅

この記事に関するお問い合わせ先

企画政策課
奈良県橿原市八木町1-1-18(市役所本庁舎)
電話:0744-21-1108
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