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あしあと

記紀と「橿原(かしはら)」

更新日:2023年03月28日

ページID: 12201

記紀とは「古事記」と「日本書紀」のことです。

それぞれ、神々が日本の国土を生んだという神話から歴史的な話へと移行していきます。

そんな記紀に、橿原にまつわる物語があります。

注記:物語の部分の内容は、歴史的事実であるかは不明ですが、古代からの記紀の伝承に基づくものです。

日向から橿原へ。 イワレビコ東征の物語。

北側から見た畝傍山

畝傍山(北側)

高天原と呼ばれる天上の世界を統率する神がアマテラス。その6代目がイワレビコ、のちの神武天皇です。

日向国で成長したイワレビコは天下を治めるべく、兄のイツセとともに東の地へ向かいました。

河内国の白肩津に着いた一行は、豪族ナガスネビコの激しい抵抗にあいます。イツセはこの時の傷が悪化し、紀国の男之水門で絶命。その後はイワレビコが中心となって進軍。熊野、吉野、宇陀、忍阪と進みながら、幾多の抵抗勢力を下していきました。 そして、兄を討ったナガスネビコとの再戦に勝利。

この後イワレビコは、橿原の地に着き都づくりに着手。畝火(畝傍)の白檮原宮(橿原宮)で天皇として即位し、天下を治めました。初代・神武天皇の誕生です。橿原市の市名は、この「橿原宮」に由来しています。

イワレビコが育った日向国は、現在の宮崎県

記紀では天地が初めて2つに分かれたとき、男神イザナキと女神イザナミが現れます。この夫婦が日本の国を生み出しました。

その後、妻を失ったイザナキが日向国で、左の目を洗った時に生まれたのがアマテラス。その孫ニニギが地上の世界を治めるため、高天原から日向の高千穂に下ります。これが天孫降臨。さらにニニギの曾孫になるのがイワレビコ、初代神武天皇です。

このように、宮崎市にも多くの神話の舞台があり、神武建国の古い縁を通じて姉妹都市となりました。毎年10月には宮崎神宮で、“神武さま”と呼ばれる県下最大の祭 「御神幸祭」が開催されています。橿原市の“神武さん” と宮崎市の“神武さま” には毎年、それぞれの市民観光団が訪れていました。(新型コロナの影響で現在は中止)

イワレビコを救った金色に光輝く鵄(とび)

金の鵄像の写真

イワレビコが東征時、熊野で進む道に迷っていると、天上の高天原の神であるタカミムスヒが次のように告げます。

「ここから奥に入ってはいけない。 今から天より八咫烏を遣わすので、その後をついて行きなさい」と。

目を覚ますと、烏が大空から飛んできて一行を先導しました。日本書紀によると兄のイツセを討ったナガスネビコとの再戦時に苦戦していると、イワレビコの弓の先に金色の鵄が飛来。そのまばゆい光で、ナガスネビコの目をくらませたとされています。

橿原市の市章は、この金の鵄が雄飛する姿と、「カシハラ」の頭文字「カ」をイメージしてデザインされました。

なお、トビは猛禽類にしては警戒心が薄く、市内でも時折見ることができます。遥か上空をはばたかずに飛んでいたり、「ピーッヒョロロロ…」と鳴いていたりします

金の鵄(とび)のモニュメント

橿原市内には金の鵄のモニュメントが現在5ヵ所あります。見かけたら、由来に思いを馳せてみてください。

1.橿原市役所本庁舎前(八木町1-1-18)

2.かしはら万葉ホール東側(小房町11-5)

3.市営八木駅前北駐車場西隣(内膳町5-1-19)

4.大和八木駅南側ロータリー(内膳町1-1)

5.国道24号線株式会社ジェイテクト奈良工場南(十市町414-2)

橿原宮跡に建てられた橿原神宮

橿原神宮の写真

記紀によると、東征により大和を平定した神武天皇はヒメタタライスズヒメ(三輪山に座すオオモノヌシの娘)を妃とし、畝傍山の東南・橿原の地で宮を建て、初代天皇として即位したとされています。その橿原宮の推定地に、1890(明治23)年に建てられたのが橿原神宮です。

明治時代には神武天皇即位の日を西暦BC660年2月11日とされ、紀元節の祝日となりました。現在、2月11日は建国記念の日となっています。この神武天皇即位の年を紀元とする日本の建国紀元を、皇紀といいます。

1940(昭和15)年の皇紀2600年記念事業として、橿原神宮の境内や外苑が学生も含んだ国民の勤労奉仕や献木で拡張整備されました。

この記事に関するお問い合わせ先

企画政策課
奈良県橿原市八木町1-1-18(市役所本庁舎)
電話:0744-21-1108
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