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古墳時代前期(3世紀後半頃~4世紀)には、初現期の古墳である弁天塚古墳をはじめとして、耳成山の北方一帯を中心とする地域に中~小規模の古墳が築かれました。
前期の終わり頃(4世紀後半)からは、古墳が築かれる地域が次第に広がっていき、中~小規模の古墳からなる古墳群が市内各所で形成され始めます。このうち、市南西部の丘陵地に形成された新沢千塚古墳群は、総数600基をこえる古墳からなり、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)として知られています。新沢千塚からは、装身具や武器・武具といった豊富な副葬品などが出土しています。その中には新沢千塚126号墳(5世紀後半)出土の中国大陸・朝鮮半島製の装身具やペルシャからもたらされたと考えられるガラス碗・皿のように、海外との交流を示すものが含まれています。
人々が暮らす集落の実態についてはまだ不明な点が多いのですが、市内各所の中期(5世紀代)の集落遺跡からは、渡来人によってもたらされたと考えられる陶質土器(とうしつどき)や韓式系土器(かんしきけいどき)が出土しています。東坊城遺跡、新堂遺跡、内膳・北八木遺跡では、これらの土器とともに鍛冶(かじ)関連の遺物が出土しており、渡来人の技術を用いた鉄器の生産活動が行われていたことがうかがえます。このほかの生産活動としては、玉造り集団の集落である曽我遺跡の存在が知られています。中期以降、このような生産活動の充実とともに集落の分布範囲が広がっていきます。その背景のひとつには、渡来人によってもたらされた新たな土木技術の導入があったと考えられます。
中期以降、橿原の地は古墳と集落のそれぞれで見られるような海外との交流を基盤として発展していきます。このような背景のもと、古墳時代の終わりにあたる6世紀後半から7世紀にかけての時期には、市南部に丸山古墳、植山古墳、菖蒲池古墳、小谷古墳など、この時期を代表する古墳が築かれました。これらの古墳は、この時期に政治の中心となった飛鳥の地の人々と密接な関係をもつと考えられています。
新沢千塚126号墳 出土品 復元模造品
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