| 日本最初の宮跡、藤原京跡 |
大和三山が見守った藤原京の歴史ドラマ。 日本最初の都城、藤原京の完成からわずか16年という短い栄華。 |
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| 藤原京は、中国の都城制を摸して造られた日本初の本格的な宮都でした。大和盆地を走る東西・南北の直線道路を基準に大小の道路によって区画され、南北の単位を「条」、東西を「坊」とした「条坊制」という町割り制度が敷かれていたといいます。都の中心、藤原宮は1辺が1qの正方形で、面積は約100ヘクタール。甲子園球場の25倍に匹敵する大きさでした。 |
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藤原宮跡の復元図 |
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| 瓦葺きの宮殿や貨幣を採用し、政治のしくみを変えた藤原京 |
| 都のくらし |
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| 当時の役人 |
和同開珎 |
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持統天皇のもと、律令の編纂が進められ、700年に教令法である「令」が、続いて刑罰法である「律」が701年に完成し、ここに大宝律令が全国に施行されることになります。持統天皇が702年に没し、後継者として期待された文武天皇もその5年後に25歳で崩御してしまい文武天皇の子、首皇子が即位といった異例の継承となりました。そして、即位の翌年、708年には貨幣として和同開珎が発行されています。 都の人口は2〜3万人。国家公務員である役人、全国から駆り出された役所の下働きや兵士、さらに都づくりの労働力として、あるいは税を運んできて臨時に滞在している人々が大勢暮らしていました。 |
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| 再現された貴族の食事 |
再現された庶民の食事 |
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当時の食事 |
当時の貴族の食事は、材料豊富で、特に宴会料理はたいへん豪華でした。真鯛・あわびのウニあえ、鮎・古代のチーズともいえる蘇・心太(寒天)、そしてデザートの果物なども膳に並んでいました。山海の珍味もたくさん食していましたが、栄養の取りすぎで病に悩むことも多かったと推測されます。 一方、庶民の食事は、玄米に塩、それに湯がいた青菜や山菜がつく程度の貧しいものでした。栄養失調で行き倒れる人も多かったといわれています。 |
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| 藤原京の造営 |
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| 藤原宮の瓦 |
柱・礎板・板 |
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| 藤原京の建設には、作業員として全国各地から多くの人が集められました。そして、建物の材料は近江(現在の滋賀県)の田上山から水路と陸路で運ばれました。また、宮殿建築では初めて屋根に瓦を葺くようになり、推定200万枚以上の瓦が使用されています。それらを生産するには、奈良盆地の各所をはじめ遠隔地の瓦工場にも発注されました。 |
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| 古道で結ばれたふたつの都 |
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藤原京と平城京の関係 |
| 藤原京と平城京の京内の街区は1辺を同じ530mで設定されています。また、藤原京では多くの幹線道路が整備されました。その中に藤原京の建設の際に基準となった下ツ道は、平城京では朱雀大路として利用されました。このようにふたつの都には共通点が見られ古道でも結ばれていたと言えます。 |
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| 天皇系図 |
| 持統、文武、元明三代の天皇にうけつがれた藤原京 |
| 藤原京と平城京の京内の街区は1辺を同じ530mで設定されています。また、藤原京では多くの幹線道路が整備されました。その中に藤原京の建設の際に基準となった下ツ道は、平城京では朱雀大路として利用されました。このようにふたつの都には共通点が見られ古道でも結ばれていたと言えます。 |
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| 当時の栄華が偲ばれるゆかりの寺。 |
| 本薬師寺跡(特別史跡) |
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| 現在、西の京の薬師寺の前身にあたる寺の跡。天武天皇が皇后(持統天皇)の病気回復を祈願して、天武9年(680)に建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。飛鳥大寺のひとつに数えられましたが、平城遷都に伴いこの地に残され、後に本薬師寺となりました。 |
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