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藤原京跡・大藤原京跡

(ふじわらきょうあと・だいふじわらきょうあと)

藤原京は都が移った後、道路も含めて田畑となってしまい、都の痕跡が全く分からなくなっていました。そのため、都の範囲が全くわかりませんでした。これに1つの手がかりを与えたのが岸俊男(きしとしお)先生です。岸先生は、藤原京の範囲について、西暦1969年(昭和44)に南北十二条、東西八条の南北に長い長方形ではないかと、想定されました。この範囲は、北を横大路(よこおおじ)、東を中ツ道(なかつみち)、西を下ツ道(しもつみち)、南を阿倍山田道(あべやまだみち)に囲まれた部分にあたります。この説は、発掘調査の成果をもとに飛鳥京(あすかきょう)や平城京(へいじょうきょう)との関係だけでなく、古道(こどう)と都の関係まで論理的に説明でき、かつ、発掘調査でも岸説を裏付ける成果が次々と見つかったので、長く定説となりました。

ところが昭和54年、橿原市八木町院ノ上遺跡(いんのうえいせき)や橿原市葛本町下明寺遺跡(げみょうじいせき)において、藤原京外に延びる道路が見つかりました。その後もこれまで藤原京の外側と考えられてきた地域で、多くの道路が見つかりました。これらの道路は、藤原京の時期に使用されたもので、藤原京の条坊道路(じょうぼうどうろ)と同じ規格で造られたことが明らかでした。こうして岸俊男先生が想定された藤原京の範囲はより範囲の大きい、「大藤原京説」が考えられ始めたのです。

さらに、桜井市上之庄遺跡と橿原市土橋遺跡(つちはしいせき)において、藤原京の東西の限りと考えられる道路が見つかったことにより、藤原京の範囲は、大きく見直されました。

現在は、藤原京の範囲は、東西が5.3kmで確定し、南北は4.8~5.3kmと考えられています。この範囲は今でいうと、東は桜井市の一部、西はおおよそ畝傍山の西側、北は近鉄橿原線「新ノ口(にのくち)」駅の辺り、南は近鉄橿原線「橿原神宮前」駅から100mほど南というとても広い範囲になり、岸先生が考えた藤原京の面積の2.5倍という面積となりました。

つまり、「藤原京跡」と「大藤原京跡」という名前は、「藤原京跡」が岸先生が当初想定された藤原京の範囲、「大藤原京跡」はその後、新しく見つかった都の範囲を指しているのです。藤原京は、1つの都でありながら、研究が進むなかで、都の中の地域が「藤原京跡」、「大藤原京跡」と呼び分けられるようになったのです。しかし、「大藤原京跡」が藤原京遷都当初からあったものなのか、それとも途中で「藤原京跡」につけたしたものなのかは今もわかっていません。

「藤原京跡」と「大藤原京跡」で、どのような土地利用の違いがあったのかは、今のところよく分かりませんが、「藤原京跡」には「大藤原京跡」よりも大きな宅地や役所などが見つかっています。分かりやすく言えば、貴族は宮に近いところで大きな家に、身分の低い役人は宮から遠いところで小さな家に、ということではないでしょうか。

六条大路と西六坊坊間小路

六条大路(下)と西六坊坊間小路(右)

 

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